2020-11-15

旭川そして玉置さん

私の生涯はありがたいことに音楽であふれていて、そこに自分の価値を見出すことができています。一生かけても自分の価値を見つけるのに苦労する方が多い中、私はめちゃくちゃラッキーだと思います。今の自分は音楽を届けることを仕事として、生活の支えになり生きがいになっています。

その価値を見出せたのは様々な要因がありますが、ひとつに10代の時に深く影響を受けた2人のミュージシャンの存在があります。ひとりは矢沢永吉で、もうひとりは玉置浩二。特に玉置さんは出身が旭川なので、雲の上の存在ながらも2世代上のバンド先輩という関係。私が昔使っていたドラムセットは安全地帯の田中さんから代々引き継がれたものでした。

私が旭川でバンドをやっていた中学生の時に、安全地帯がアマチュア時代に録音したデモテープを聞いたことがあります。その曲をいつどこで、どのように入手したかは全然覚えていません。私が13~14歳(1983年ころ)だったこと以外の詳細は何もわかりません。

しかしその曲のメロディー、そして歌詞は今でも鮮明に覚えていて、今でも何気ない瞬間に口ずさんでしまうことが多々あります。その曲の歌詞はこんな感じでした

人は夢をひとつ持って、この星に生まれてくる
俺たち花を咲かせよう、いつか・・・この星の上に

その曲は玉置さんが若いころに音楽の道を志し、成功を夢見る内容の歌詞でした。あれから数十年たった今、玉置さんの存在は皆さんの目にどのように映るでしょうか?少なくても私の目には日本の音楽業界で決して朽ちることのないバラの花を咲かせている素晴らしいアーティストに映っています。

子供のころに旭川という町で同じ空気を吸って、同じ星空を見て、同じ大地の土で育った人物が成功をしていて、その成功はまだずっと先にも道が続いている。彼はアーティストとして今でも成長し続け、心に残るメロディーや唄を人々に届けている。

その事実は私のモチベーションをキープする動機付けとして何にも代えがたい原動力になっていることは確か。

全く次元が違うことは差し置いて、若き自分に目指す方向性を示してくれたこと。旭川の田舎出身者でも音楽で成功できるという信じられないような事例を作ったことは凄い!旭川市の歴史に深く刻印されるのは間違いない。

そして彼が奏でるメロディーは永遠に日本人の心奥深くに刻まれ続けることでしょう。まるで私の心に彼の唄が響き続けるように・・・


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