昭和の教育
私達が育った学校教育では何が正しくて、何が間違っているかをいつも問われてきました。
正解したら良い子、間違えたら悪い子、勉強でも道徳でも、どんなことにも正しい答えを求められてきました。今考えると簡単なことなんですが、答えなんてひとつじゃないんですよ。
みんなで同じ学生服を着て、髪型には制約があり、カバンも皆と同じ。
私は学生の頃からこのような制約に疑問を感じていましたが、当時のほとんどの友達は何も疑問を感じていないようでした。ルールだから当たり前。規則を守らないと先生に怒られる、と。
極めつけは、昭和の生活指導の先生は木刀を持ってルール違反を犯した生徒を平気で殴っていたこと。今だったら問題になりますが、当時はそれすらもまかり通っていたから不思議です。
私は17歳の時にニューヨークの市立高校へ通っていた経験があるのですが、アメリカの高校があまりにも自由なことにカルチャーショックを受けたことを今でも忘れません。
服装や髪型が自由なのは当たり前で、特にニューヨークは人種のるつぼですから、金髪がダメとかパーマがダメとかはない。そんなルール作りはただのナンセンス、あらゆる人種の生徒を黒髪で統一するなんてありえないでしょう。だから昭和の我々の規則って単一民族だから成り立つんです。
授業も自由で、積極的に勉強をする子もいれば、そうでない子もいる。そこそこ出来の良い平均点なんて求められないし、ましてやルールを守らないからって、先生が学生に暴力を振るうなんて一度も聞いたこともありません。逆に80年代の高校生たちは学校にナイフなどを所持している子もいて、先生の方が恐怖だったのではないか?とさえ思います。
数学の授業では正確な答えが求められますが、読解問題などでは生徒が様々な解釈をする。それに対して先生は「そんな解釈もあるよね」とか「それは面白いところに目を付けたね」など、不正解という否定形ではなく、生徒の個性を肯定するところも日本の学校教育との差を感じました。
今自分が大人になって、当時の日本の学校教育に疑問を持っていた自分が誇らしい。
皆と同じ制服を着て、全員を平均点以上にすること、脱落したら落ちこぼれ、問題の答えはひとつだけ・・・など。
もちろん、ルールを守って秩序を保つことは大切。でも、それは子供の頭で考えさせるように教育すればいいこと。勉強が苦手な子供には代わりに他の才能を見出してあげればいいし、人生って常に答えはひとつじゃない。
生きていると求めている答えは一つじゃないし、正解すらないってことが多々ある。
学校教育の中で正解を求めて一直線って、大人が子供に強要するべきではないと思うんですよね。子供の時こそ、もっと頭の柔軟さを養わないと、大人になってから自分を責める人間を作ってしまう。心の自由さを奪うような昭和の教育って、今考えても謎だらけです。
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