真似ぶ
人間は学ぶことを拒否した時点で人間的成長の終了を意味します。私は何歳になっても意欲的に学びたいですし、実際に好奇心が旺盛過ぎて知りたがり。「学ぶ」というよりは「遊ぶ」という感覚に近く、学ぶことをやめることは生活の楽しみを奪われる事にさえ感じる。
「学ぶ」の語源は「真似ぶ」から派生したという説があり、文字通り真似をして得ること。私もその説が有力だと感じますsし、どんなことも物事をスタートする時点では白紙の画用紙であるほど良い。
私が手掛けている音響の仕事はいわゆる専門的な技術が問われる仕事。私は専門的な学校に行って知識を得たわけではありませんが、この仕事を始めた時には既に技術が必要な状態でした。しかし、誰にも頼ることもできず、専門的な知識を得る術もままならない状態で事業をスタートしてしまった。専門書を何冊も読み漁りましたが、どれも実践的ではない。そこでどうしたか?
自分よりも経験豊富な人をお金を払って雇い、とにかく作業をしている姿を目に焼き付け「技術泥棒」をしたんです。
昭和の時代、調理師の見習いは皿洗いからスタートで何年も皿を洗い続ける。そこで先輩調理師から調理後の鍋を渡され、鍋にこびりついたソースを舐めて味を真似てみた、と言われています。これは帝国ホテルの取締役になった方が皿洗いからスタートした苦労人で有名な話です。
料理に限らず、歌やダンス、スポーツ、言葉を覚えたり、勉強の方法など多岐にわたり技術を「真似をしてみる」ということから立派な学びが得られ、自分の型を築く土台となる。
そのためには自分自身が素直で謙虚でなければならず、画用紙は真っ白なほど成長が早い。そこにヘタなこだわりや自分の我なんていらない。まずは手本となる先人達のワザを真似てみること。真似ている対象が自分の理想形であればあるほど、その人に近づくことができる。だから同時に本物に触れることが大切ですし、日本に本物がないなら海外に出てでも本物を見てみることが大切。ニセモノを真似したら、その先の完成形は2世代目のニセモノを生むだけ。
物事を真似から初めてみて、ようやくスタート地点に立つまでに10年。そこからは自分の技にいっそうの個性を磨く期間として費やす。物事を本当の意味で極めるには15年~20年はかかる。そう考えると人間が一生を通じて極められることは一つか二つくらいだろうか?
自分にとって最高の学び(技術)をモノにするまでの道のりは長いけど、それを極めた人間として成長し続けたいものです。
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