価値観の価値
昔のアルバムを整理していたら、出てきました!貴重な写真が。
こちらの写真は1993年New Yorkで撮影した若きDJ Jobowの姿。5年近くもアメリカに住んでいたのに、全然アメリカンナイズされていない。角刈りで誰が見ても純日本人風な風貌です。
日本に住んでいるとあまり気にしませんが、海外に住んでいると自分が日本人であることのアイデンティティーを意識するようになる。日本人としての誇りを持つようになりますし、私の場合は自分は他人と違って当然という意識が芽生えたのもこのころ。
この時期に長く海外に住んだおかげで、日本特有の同調圧力にも気にしない度胸が付きました。そして自分の行動に対しては一貫して他人の目を気にすることもなくなった。要するに自分なりの価値観がニューヨークに住んでいたおかげで確立されたんです。
このような体験って、若いころに思い切って海外に出た人なら理解できるはず。日本人のモラルや道徳観は素晴らしい長所でもありますが、裏をひっくり返すと他人に対しても同じような価値観を求めがちになる。子供を叱る時も「みんながやっていないから、あなたもやっちゃダメ」とか、歩行者が車が絶対に来ない交差点でも信号を絶対守る・・・のような価値観。最近の例では外でも誰もがマスクを付けているという不思議な世界が広がっている。
当然、私自身は自分の価値観を他人に押し付ける気はありません。自分は外ではマスクは着けないと決めているから付けないだけ。本当は公共の場でも付けたくないけど、わざわざ面倒を起こす気はないし、マスクごときでそこまで戦う気になれないだけ。
人間の価値観は幼少期に始まり、学校生活や社会に出る手前くらいまでに確率されます。若いころに沢山の価値観に触れ、世界的な宗教観、政治観などのバックグラウンドを理解することで、日本の常識は決して世界の常識ではないことに気付く。
私たちのような昭和の日本の教育を受けてきた世代は、個性を潰され、出る釘にならないように教えられてきました。これから令和の時代は、日本の道徳観や神道的な考えを長所に、もっと個人のレベルで物事を判断できる教育が求められていると思います。
小さいことですが「本当に屋外でマスクをするべきなのか?」という日常もそのひとつ。皆がやっているから、自分もやる。そんな受け身のままで思考停止に至っていると、自分の判断力が鈍ってしまうことに懸念してしまうのは私だけでしょうか?
コメントを残す